用心棒の旅 被災〜帰還 1

「もっと大っきいのが来るんじゃないの」とは角田からのタクシー運転手。この時は全く気に留めなかったが。

3/11(金)
平泉よりレンタサイクルにて予定通り高舘義経堂→中尊寺→弁慶墓を廻る。平泉駅に戻り缶コーヒーを一本飲んで14:46発東北本線盛岡行にて水沢、黒石寺を目指す。間もなく列車が入線、ワンマン2両編成の車両後部に乗り込む。駅発車後、数秒にて車内灯が消える。気に留めずにいると向かいの女子高生が、あ、消えた、と言って不思議そうにしているのを見て異常を察知。その瞬間列車が横揺れを始める。列車はこの時丁度急カーブに差し掛かっており揺れが増すとともに急ブレーキの音、周りの乗客は悲鳴とともに座席から振り落とされるようにして通路へ腰を落とす。車両が停車するとともに運転士の「巨大地震です、何かにおつかまり下さい!」という叫び声のアナウンス。車両は大きく揺れて景色が全く定まらず転覆の危険。揺れの回数、大きさ共に一向に治まる気配なく、事態の重大性を確信。隣の学生がすぐさま携帯にて震度7の情報を得る。自分の携帯は既に通話不能に陥っているがネットへの接続は可能、中でも繋がり易かったmixiニュースより地震が東北全域関東にまで及ぶものであることを知る。急いで自分の無事を知らすメールを送信するも果たして何時間後に届くのかは不明。

 落ち着いて車窓に目を向けると列車は中尊寺のある山の向かい、丁度本堂の正面辺りで停車しているようで、100メートルほど先の線路は川の上である。高架上の為に余震の揺れが増幅されているようで、目で見える範囲の電柱・電線は車内で感じる程は大きく揺れていない。周囲の車、人は揺れに合わせて徐行等しつつも比較的スムーズに動いているようだ。
 運転士による怪我人の有無の確認、状況の説明はあったものの断続的な余震の為、事態は進展せず。近辺の東北本線上では一番危険な状況に在る車両ということで救済が最優先されると伝えられたが、高架上という特殊な状況によって具体的な救済方法の協議が長引いているらしい。
 夕方になり列車右手に見えていた4号線バイパスはいつの間にか大渋滞。車の明かりが数珠つなぎとなって異様な光景、交通麻痺が発生しているようだ。この頃既に携帯は全く使えなくなっているが人によっては受信が可能なようで、数人が通話、安否を確認しあっている。余震は収まらず、車両が揺れる度悲鳴がおこる。

 暗くなり始めたこともありようやく17:15頃から車両退避が開始、進行方向にある川の堤防まで歩いて抜けるという。60人程度の乗客は女性子供老人を先にして18:00過ぎにようやく全員降車、堤防へ集まってきたタクシーに分散乗車して平泉小学校へと移動する。

 平泉町内は全域停電、水はかろうじて出るようだが避難所となっている体育館は断水している様子。体育館には町民、ドライビングスクールの免許合宿生、JR乗客合わせて200人程度が避難。役場職員だろうか、館内の誘導等を行っている。毛布及び炊き出しにおにぎり2個とお茶が配布される。この避難所には発電機が数台あり照明が設置されており夜でも最低限の明かりがあり、灯油ストーブは計4台設置されて幾分暖かい。発電機の音が物々しく響く。

 なんとか自宅へ電話連絡をとる手段を考えたが携帯は完全不通。体育館入り口前の公衆電話から固定電話へ試すが全く通じない。関東圏への連絡手段は完全に断たれているようである。遠方ならばどうかと時間を置いて試しに名古屋の実家へ電話すると通じたため、自分の状況を伝えると共に名古屋から自宅への連絡を頼む。この時仙台の弟の無事を知り安心する。
 ヒライの携帯にはメールが少しづつ届くようだが自分の携帯はウンともスンとも言わない。もう一人の用心棒カネガエからのメールに二人感激。ヒライには母親からのメールも届く。絵文字の内容からすると無事らしい。後は会社の様子が気になる。
 20:30頃にはようやく自宅へ公衆電話が繋がる。栃木も広範囲で停電、かろうじて電気の通じている市内自宅に家族が集合しているという。皆の無事を聞きガッツポーズ!出来る限り早く無事に帰ると伝え手短に通話を終える。
 9時半頃ウトウトと眠りにつくが夜間はかなりの冷え込み、毛布一枚だけでは寒すぎて眠れない。12時頃、たまらず2枚目を借りる。ヒライは一枚で寝入っているが周囲はいつのまにか皆毛布を一人2〜3枚使っている。敷き布一枚、掛け布一枚、それでもなかなか寒さは和らがず、余震の度に天上の照明がよく揺れるのを眺めながらこらえる。

3/12(土)
 1時間ごとに目を覚ましながら朝を迎える。館内は子供も多く、朝から元気な様子に癒される。JR一ノ関駅職員がJR乗客のケアの為、朝晩避難所に顔を出して乗客一人ひとりに声をかける。復旧時期についてはまだ何も分からない。ヘルメット姿だからか、子供が彼らによく話しかける。微笑ましい光景。
 7:30テレビが持ち込まれる。アンテナ設置に苦心、画面は見にくいものの深刻な被災状況が次第に明らかになる。映像に見入る人たちの表情は非常に堅く、重い。辛いニュースばかりだが、幼い子の犠牲を報じるものは尚更である。震災直前に受信した子供の画像をしばしば見つめる。
 8:00平泉町長とJR職員によって、被災状況や避難施設の使用方法、今後についての説明が為される。
 8:15炊き出し、おにぎり2個とたくあん、つけもの。岩手日報が配られる。凄惨な記事。
 余震は続くが避難所は比較的平穏である。昼にはおにぎり2個とたくあん、豚汁。おやつには中尊寺と地元菓子店からお茶と餡ドーナツの差し入れ。
 ドライビングスクールの生徒に充電器を借りて携帯を充電。何も使えないことには変わりないが少しだけ安心。JR乗客の中では迎えの到着によって避難所を去ってゆく人がチラホラ。JRの計らいで近所同士を車に同乗させているようだ。この頃から避難所生活の馴れか、ドライビングスクールの生徒達が近所の商店で袋一杯にお菓子を買出して寛ぐ姿が目立つ。避難長期化における町の食糧が気がかり。

 15:00避難所生活では気分転換が重要とヒライと散歩、小学校前のお店で地元の兄さん(長髪)と話す。こちらが観光客というと驚く。海辺の友人宅は1回目の津波でやられたという。「お大事に」と言い残して車で去る。平泉駅(部分損壊)のトイレで髭を剃り、途中の橋で川を眺める。ヒライはなんとか会社に電話連絡をと試みるが既に町中の公衆電話も使用不能。地元住民はまだ大分自宅に残っているようで昼間は玄関前で隣同士話をしたりしている。高齢者はじめ多くの住民が今後徐々に避難所へ移動し、混雑することが予想される。
 
 散歩から帰ると避難所周囲にうっすら漂うカレーの匂い。17:00夕食炊き出し。カレーが素晴らしく美味しい。若者達はおかわりに並ぶ。食後はまったりとしつつニュースを眺めるが、キャスターの無神経な発言や、不安を増長するような報道にうんざり。避難所の人々は現地情報の少なさに不安を覚えている。限られた燃料を使っての発電と暖房が続くが、戸をキチンと閉めるなどのルールがなかなか徹底されず職員が苛立つ場面も。